人は見たいものしか見ない
人間って、それぞれがバイアスのかかった世界を生きています。
常識とか、信念とか、宗教とか、もっと身近なところだと好き嫌いとか。
それぞれの人が、それぞれのフィルターを通して世界を見ています。
そして、人は自分が見たいものを見ます。
私は空が大好きでしょっちゅう見上げているので、きれいな夕焼けや、満月や、ダイナミックな雲や、虹をよく見ます。
ついこの間も、息をのむほど美しい夕焼けを見たので、翌日その話を知人にしたのですが「え、夕焼けなんて出てたっけ?全然気づかなかった」と、そっけない反応のあとに、「キノコって、しょっちゅうきれいな空とか見てるよね~いいな、私全然そういうの見られないんだよ」と、とても羨ましいことのように言われました。
かたや「いいな」と私のことを羨ましそうに言った彼女はギフトを探す天才で、街を歩いていても雑貨屋さんの軒先でちょとしたものを見つけては「これ☆☆さんがすごく好きそう!」なんて言ってはさっと購入して「きっと好きだと思って」とさりげなくプレゼントしたりしている。
人の好みを把握して、常にアンテナ張っていろんな人にぴったりなものを見つけ出すなんて、私が夕焼けを見るのに比べたら何倍も素敵な才能だと思う。彼女は人と接してる時に「この人はどんな人かな、どんなことや物が好きなのかな」って観察してるんだろうし、街を歩いている時も誰かが喜びそうなものがないかなって無意識のうちに探してるんだと思う。
何が言いたいかというと、人は自分が見たいものを見るってことでした。
そして、そうやって見たいものを見つければ見つけるほど、「やっぱりそうだ」と自分の「好き」とか「傾向」とか、もっと言うと「才能」みたいなものが自分の中で肯定され、自信が生まれ、そしてさらに自分が見たいものを見つけやすくなる。
でももしかしたら、ちょっと違うものを見たとしても、こじつけの解釈を始めちゃったりするかもしれない。
こじつけの解釈を他人に肯定されたり、同じような話を本で読んだりセミナーで聞いたりすると、さらに「やっぱりそうだったんだ」と間違った刷り込みがされていく。
私がスピリチュアル苦手なのって、引き寄せだとか神様だとかも本人の心がけや心の状態次第では、そういう間違った刷り込みを強化してしまう危険なものだと思うから。
最近、過去に見えた(ように思った)ことを書くためにツラツラと5年前、10年前、学生時代や子供のころのことを思い出していると、出るわ出るわ、それって視えてたかもしれないエピソードの数々。
でもそれが本当に当時見えていたものなのか、今振り返って「視えていた」ことにしたいから想像力を膨らませてこじつけをしているのか、なんだか自信なくなってきちゃったんですよねぇ…
とはいえ、思い出が妄想に彩られたフィクションだったとしても、もはやもうそれは大切な私の記憶の一部なので、これからもしばらくそうした「視えた」エピソードをつづっていく予定です。
一つ思い出すと芋づる式にどんどん思い出すので、タイトルだけメモして下書き保存した記事がたくさん出来てしまった。全部書けるかな~
関東はすっかり晴れて、今日も素敵な夕焼けが見られそうです。
大雨の被害に遭われて大変な思いをされている方々のところにも、きれいな夕焼けが届きますように。
キノコでした。