私が初めてはっきりと霊を意識した時のこと
それは、おばあちゃんのお葬式での出来事でした。
私はまだ中学に上がったばかりで、見えてるとか見えてないとかを意識する以前に、スピリチュアルという言葉もそういう存在があることも知らなかった頃です。
死というものを間近に経験するのは物心ついてから初めてで、死の悲しみや恐怖よりも、親や集まった親戚の全身から漂う「ただ事じゃない」雰囲気のほうに圧倒されていた気がします。
お葬式で、私はお坊さんのお経の声を聞きながら、お焼香の煙の行方を目で追っていました。
煙が天井までゆっくりと上っていき、大きく渦を巻くように天井の隅の方に集まっては、空調の風に乗ってさーっと流れていく様子をぼんやりと眺めていました。
お坊さんの声が深く心地の良くおなかに響くのでうっすらと眠気を覚えながらも、「寝てはいけない」とじーっと天井を見つめていたのを覚えています。
しばらくそんな風にしていたら、煙の流れとは違う、白っぽく空気が揺らぐようなものが見えてきました。
お経の瞑想効果ですっかりリラックスしきっていた私は、最初それが何かわからないまま眺めていたのですが、指先で数珠を繰っているうちにハッと「あれはおばいちゃんだ」と気が付いたんです。
おばあちゃんはその場に集っていた人たち一人ひとりの表情を確かめるようにあっちからこっちへと移動しているようでした。
生前チャキチャキといつも動き回っていた雰囲気そのままに、せわしなくあちこちと動き回るので、まるで高速移動で分身の術のようにおばあちゃんがいっぱいいるみたいな感じ。
その様子がおかしくて、私はお経の声に体を委ねながら少しの間おばあちゃんが亡くなった悲しみから解放されました。
その時、不思議なことに「あれはおばあちゃんだ」と何の疑いもなく心に浮かんだ思いを受け入れ、煙のように漂うおばあちゃんの魂のようなものをずーっと目で追っていました。
ただすっと、自分が見ているものがおばあちゃんであるという事実だけが心に入ってきたのです。
その出来事を人に話すことはありませんでしたが、あのときに見たもの、感じたことはずーっと心の中に残っています。
疑いや恐怖は全くなく、疑問を感じることもなく、「あのときおばあちゃんがいたなぁ」って思い出します。
思えばあれが初めてはっきりと「霊」を意識した瞬間だった気がします。
先入観ゼロだったので、なんというか、とてもフラットに体験できたのが良かったな。
ものすごく透明な思い出です。
この数年後、おじいちゃんが亡くなったときにもまた同じような体験をしたのですが、その話はまた明日。
キノコでした。
「自分」の境界線が分からない
昨日、親指が宇宙まで拡大しちゃうという話を書いたのですが。
同じように小学校高学年からいわゆる思春期と言われる時期、私はたびたび「自分の境界線」を見失って混乱するということを体験していました。
自分の境界線というのには2種類あって、ひとつは物理的な「身体の境界線」。もう一つは「心の境界線」とでもいうもの。
「身体の境界線」は、昨日の話が一番わかりやすい例なのですが、とにかく自分の体の大きさとか、手を伸ばした時の距離感みたいなものがすごく把握しづらかった思い出があります。
普通に考えると皮膚が自分の身体の境界線で、皮膚の内側は自分、外側は外の世界です。
そうなんだけど、私はたびたびリビングのソファーに座っているのに部屋の向こう側の隅っこに丸まっているような錯覚を覚えたり、意識が体を抜け出して漂って行ってしまい風に流されてどっか行っちゃったりしていました。
冷静に考えたら全然届かいない遠くにあるものをひょいと手でつかもうとしてみたり、家や学校の壁との距離感を測れずに激突したりというのもしょっちゅうやってました。
もう一つの「心の境界線」でいうと、自分が考えていることと人が考えていることの境目が分からなくなって、自分の意識がどれなのか見失ってよく混乱してました。
人が思い浮かべている光景がどんどん流れ込んできたり、相手が感じてる感情を同じように感じてしまう、というようなことだったように思います。
自分は全然怒ってないのに突如強い怒りの感情が湧いてきたり、いったこともない場所で知らない人と話している”思い出”が浮かんできたり。
で、これを書いていて思い出したのですが、その頃の私はとにかく毎日疲れ果てていて、学校から帰ってくるとおやつを食べて、夕飯までひたすら眠ってました。
毎日毎日、眠くて仕方がなかった。
もっと外に出かけたり、大好きな本を読んだりしたいのに、睡魔に勝てない。
寝てしまってばかりで何もできない自分にものすごい自己嫌悪してました。
自分と他人や世界の境界線が分からなくなっていたら、そりゃー疲れてしょうがないだろうと今になると思います。
よく頑張ったよ、私。
ちなみに未だに指先の感覚が鈍いのか、つかもうとしたものを落っことすのは日常茶飯事です。
キノコでした。
親指が宇宙大に拡大していくような感覚
多分小学生の高学年くらいの頃の話です。
そのころ、私は目を閉じると自分と世界の境界線が分からなくなる、というのを体験していました。
それは、寝ようとして部屋を暗くし、目をつぶるとはじまります。
まず、自分の意識が手の親指の先とか、先端のどこかの一点に集中します。
そこから、親指がどんどんと膨張していって、自分の身体を飲み込み、部屋いっぱいに広がり、加速度的に拡張を続けて宇宙いっぱいにまで果てしなく広がっていってしまう、というイメージで、毎晩毎晩繰り返し同じようなイメージを見ました。
目を閉じるとそのイメージにとらわれてしまい、怖くて夜なかなか寝付けず、一人じっと耐えているうちに疲れ果てて眠りに落ちる…という日々を過ごしていました。
親に話しても全く理解してもらえなかったので「これは人に相談してもダメだ」と思って、とにかく体を丸めて小さくなって両手で身体を抱きしめることで、果てしなく拡大してしまうイメージを食い止めようと頑張っていたような記憶があります。
目を開けるとうっすらと部屋の様子が目に入るにもかかわらず、拡大してくイメージにとらわれたときは同時に真っ暗な世界も見えていました。
実際に目に入る光景と、脳内で再生されるイメージとが二重露光のように重なって一度に見えている感じ。
真っ暗な世界の中で、体の一部に意識が集中するときは脈打つ血管や赤血球のようなものが見え、
どんどん膨張して宇宙まで行くと銀河に広がる無数の星がきらめいているのが見えました。
地上から星空を眺めるのとは全然違って、あたりは果てしなく真っ暗で、圧倒的な空間の広がりのかなたに星が瞬くのが見える感じで、私は重力から解放され宇宙そのものになっているような感覚でした。
しばらくするとだんだんそのイメージを見ることもなくなり、落ち着いて眠れるようになりました。
今でもたまに、自分の体の一部に意識がぎゅーっと濃縮される感じとか、宇宙と一体化してしまうような感覚を覚えることがありますが、違和感があるだけで恐怖はなくなりました。
自分の身体の物理的な境界線が正しく認識できなくなる感覚は、本当に怖かったなぁ…
親指にできたささくれを間違えて引っ張ってしまい、血が出てしまったのをぺろりと舐めていたらそんなことを思い出しました。
ささくれって地味に痛いですよね。
キノコでした。
世界は粒子の集まり
慶応義塾大学教授で幸福学を研究されている前野隆司先生の「スピリチュアル」セミナーに参加したときのこと。
今年の5月なのでもう2か月前になりますが、世界が粒子の集まりのように見えるのだ、という話が出てとても印象的だったので何とか覚えているうちに書いておきます。
「本当に慶応SDM(システム・デザイン・マネジメントの大学院)でやって大丈夫か?!」と前野教授ご本人も笑いながらおっしゃっていた無料公開講座のタイトルは「木を見て森も見るスピリチュアル学:スピリチュアル4.0」。
幸福を科学的に研究するバリバリ理系の前野教授と、ほしのしほさんという、スピリチュアルな活動をされている「以前、宇宙人だったころの記憶がある」というガチンコスピリチュアルな方との対談。
「科学の観点からスピリチュアルに仮説をぶつけ、科学とスピリチュアルの対話を進めます!」という講座概要通り、オカルトっぽさゼロのオープンで明るい対談でした。
で、中でも一つ印象に残っているのが、ほしのさんがおっしゃってた「世界が粒子の集まりのように見えている」というお話。
人はもちろん、机も椅子も、床や天井といった空間を構成するものも、食べ物も、世界中のあらゆるものが粒子が塊となって形を表してるように見える、というようなことをおっしゃってたのです。
ずーっと見てると粒子がバラけて、人の顔とかは「顔」としての塊を成さなくなってしまうため、人の顔を判別するのが難しく感じていた時期があったとか。
私は目に入るモノは塊のモノとして見えているのですが、この「粒子が見える」という部分はちょっとだけ分かる気がしたんです。
というのも、なんとなく気が乱れていたり、目に見えて雑然とした空間にいると、空気の粒子が荒く感じるからです。
ものすごく湿度の高い日や、雨が降る直前に、空気中の水分が白い靄のように目に見えてくるように。
雷が鳴る前に、空気中のピリピリとした細かい静電気がそこかしこでスパークするのを待っているのが見えるように。
もしくは、古いビデオテープを再生しているときのように全体にうっすら砂嵐がかかったような、解像度がいつもよりも低いような感じ。
最初は、埃っぽい部屋だから、単純に空気中に舞っている埃が見えてるんだと思ってました。
我が家のオット君は埃耐性が非常に高く、部屋が相当埃っぽくても埃に気づかないという困った特技を持っています。対して、私はちょっとでも部屋の隅に埃がたまっていると、視界に入る度に気になって仕方なくて超ストレス。
そんな我が家なので、多分私が埃を目ざとく見つけているだけだと。
でも、オット君に限らず、同じ部屋にいるほかの人には見えていないらしい。
しかも、きれいに掃除が行き届いていて埃っぽさゼロの場所であっても、粒子が荒いように見える場所がある。
コレハナンダ…
この対談で粒子の話を聞いてから注意して見てみるようにしたら、粒子が荒い場所もあるけど、粒子が荒い人もいるっぽい。
顔が判別できなくなるほどではないけれど、これは「視える」方の視界が「見える」よりも優位だったら確かに判別できなくなるだろうなぁ、という気はしました。
問題はですね、我が家のリビングはモノもあふれかえっているし、気の流れもどうも悪いらしくてすごい粒子荒いんですよ。
家の中で一番リラックスできる場所=世界で一番ほっとする場所であってほしいのに、この粒子の粗さはツラい。
一所懸命断捨離と整理整頓をしてみたり、神棚を設置してお祈りしてみたり、セージでスマッジングしてみたりしてるんだけど、どうもクリアにならない。
どうしたらいいんだろう~~~(困)
どういう場合に粒子が荒く見えるのか、どうして荒く見えるのか、すごく気になります。
知っている人がいたらぜひ教えてください。
キノコでした。
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【本日のリンク集】
人の「見える」の限界
今日は「視える」話じゃなくて、「見える」話。
人間は可視光線と呼ばれる特定の周波数の光しか見えていません。
もしも紫外線が見えたら?ラジオ派が見えたら?X線が見えたら?
方向を感知できるセンサーが体に搭載されていたら?
という動画を見まして。
【脳科学の達人】池谷 裕二【第38回日本神経科学大会 市民公開講座】
個人個人の感覚は測定して数値化し、シミュレーションして見せててもらうことはできれど、実際にほかの人がどう感じてるかということを私たちは普段知ることができません。
共感覚というのも少し前に話題になりました。
人の顔を見ると色が見えたり音が聞こえたり、音を聞くと味がしたり。五感のコネクションが混線しているような状態なんでしょうか。不思議。
人は見たいものしか見ない。
と同時に、見たいと願うものも見えないかもしれないし、見たくなくても見えちゃう人もいるのかもしれない。
科学ではまだ解明されていない様々なことがあるわけで、オーラとか生まれ変わりとかアカシックレコードとかもそのうちに大発見があって、科学的事実として広く受け入れられるようになるのかもしれない。(しないかもしれないけど。)
例えばオーラが見えるのは共感覚的なもののさらに拡張バージョンなのかもしれない。
というのは飛躍しすぎなのかもしれないけれど、脳科学とか量子力学の最先端ってすでに若干オカルトっぽくないですか?
さて、見えない紫外線対策をバッチリして、出かけますぞ。
キノコでした。
すみっこが怖かった話
高所恐怖症とか閉所恐怖症ってあるじゃないですか。
あんな感じで、私は物心ついた時からつい最近まで、いや今でも若干「すみっこ恐怖症」です。
全部の隅っこが苦手なわけではなく、リビングの隅っこに置いたソファは私のお気に入りの場所です。でも駅のベンチのあたりや柱の周辺。路地の角っこあたりは、怖い。
単純にゴミやホコリが吹きだまっていたり、駅なんかだと酔っ払いが粗相した後なのか床が黒ずんでたりするのが気持ち悪いのかな、と思ってました。
そういう場所に立つと背筋がゾクゾクするような嫌悪感を感じてしまうのは、多分そういう清潔感の欠如に対する嫌悪感なのかなと。
しかし。
そういう隅っことか、柱がある場所、道の角っこって、「何かがいる!」って思う時も多いのですよ。
悪霊とか幽霊ってほどのものでもなく、まっくろくろすけほど無邪気でもないけど、穢れを集めてきてしまう小動物みたいな。
たまに、うすーく残る人の思念の気配や、妖怪みたいなのや、亡くなった方なのかなと思う人の気配を感じることもあるけど、だいたいにおいてそんなに逃げなきゃいけないほど怖いものでもない。
でもほら、町中でゴキブリとかドブネズミ見つけちゃったら、「ギャ!」ってなって逃げるでしょ?
感覚的にはあれにとても近いんじゃないかなと、すみっこに感じる恐怖感を脳内で味わい直しながら考えました。
単に変なところが潔癖症なだけかもしれないが、見えようと見えまいとゴキブリやドブネズミはやっぱりごめんなので、これからもそっと避けて通ることにします。
キノコでした。
人は見たいものしか見ない
人間って、それぞれがバイアスのかかった世界を生きています。
常識とか、信念とか、宗教とか、もっと身近なところだと好き嫌いとか。
それぞれの人が、それぞれのフィルターを通して世界を見ています。
そして、人は自分が見たいものを見ます。
私は空が大好きでしょっちゅう見上げているので、きれいな夕焼けや、満月や、ダイナミックな雲や、虹をよく見ます。
ついこの間も、息をのむほど美しい夕焼けを見たので、翌日その話を知人にしたのですが「え、夕焼けなんて出てたっけ?全然気づかなかった」と、そっけない反応のあとに、「キノコって、しょっちゅうきれいな空とか見てるよね~いいな、私全然そういうの見られないんだよ」と、とても羨ましいことのように言われました。
かたや「いいな」と私のことを羨ましそうに言った彼女はギフトを探す天才で、街を歩いていても雑貨屋さんの軒先でちょとしたものを見つけては「これ☆☆さんがすごく好きそう!」なんて言ってはさっと購入して「きっと好きだと思って」とさりげなくプレゼントしたりしている。
人の好みを把握して、常にアンテナ張っていろんな人にぴったりなものを見つけ出すなんて、私が夕焼けを見るのに比べたら何倍も素敵な才能だと思う。彼女は人と接してる時に「この人はどんな人かな、どんなことや物が好きなのかな」って観察してるんだろうし、街を歩いている時も誰かが喜びそうなものがないかなって無意識のうちに探してるんだと思う。
何が言いたいかというと、人は自分が見たいものを見るってことでした。
そして、そうやって見たいものを見つければ見つけるほど、「やっぱりそうだ」と自分の「好き」とか「傾向」とか、もっと言うと「才能」みたいなものが自分の中で肯定され、自信が生まれ、そしてさらに自分が見たいものを見つけやすくなる。
でももしかしたら、ちょっと違うものを見たとしても、こじつけの解釈を始めちゃったりするかもしれない。
こじつけの解釈を他人に肯定されたり、同じような話を本で読んだりセミナーで聞いたりすると、さらに「やっぱりそうだったんだ」と間違った刷り込みがされていく。
私がスピリチュアル苦手なのって、引き寄せだとか神様だとかも本人の心がけや心の状態次第では、そういう間違った刷り込みを強化してしまう危険なものだと思うから。
最近、過去に見えた(ように思った)ことを書くためにツラツラと5年前、10年前、学生時代や子供のころのことを思い出していると、出るわ出るわ、それって視えてたかもしれないエピソードの数々。
でもそれが本当に当時見えていたものなのか、今振り返って「視えていた」ことにしたいから想像力を膨らませてこじつけをしているのか、なんだか自信なくなってきちゃったんですよねぇ…
とはいえ、思い出が妄想に彩られたフィクションだったとしても、もはやもうそれは大切な私の記憶の一部なので、これからもしばらくそうした「視えた」エピソードをつづっていく予定です。
一つ思い出すと芋づる式にどんどん思い出すので、タイトルだけメモして下書き保存した記事がたくさん出来てしまった。全部書けるかな~
関東はすっかり晴れて、今日も素敵な夕焼けが見られそうです。
大雨の被害に遭われて大変な思いをされている方々のところにも、きれいな夕焼けが届きますように。
キノコでした。